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観劇、LIVE覚書

Musical アルジャーノンに花束を  20140920

Musical アルジャーノンに花束を

2014.9.18〜28 天王洲銀河劇場
2014.10.16  福岡市民会館
2014.10.18  サンケイホールブリーゼ

原作 ダニエル・キイス
脚本/作詞/演出 荻田浩一
音楽 斉藤恒芳
協力コーディネイト 早川書房

チャーリィ・ゴードン 浦井健治
ハロルド・ニーマー教授/ギンピイ 良知真次
アルジャーノン/アーニィ/白痴のウェイター/チャーリィ(子供時代) 森新吾
ヒルダ/ファニィ/ローズ(回想)/ノーマ 桜乃彩音
バート・セルドン/フランク/リロイ 高木心平
フェイ・リルマン/ジョー 秋山エリサ
ルシル/エレン/ミニィ/ノーマ(回想) 吉田萌美
ジェイ・ストラウス博士/アーサー・ドナー/マット 宮川浩
アリス・キニアン/ローズ(幻想) 安寿ミラ

ミュージシャン
吉岡篤志 violin
灘尾 彩 cello

story
ドナーズ・ベーカリーで働くチャーリィ・ゴードンは32歳。
知的障害である彼は、ずっと賢くなりたいと願っていた。
ある日彼は、ビークマン大学付属精神遅滞成人センターを訪れる。出迎えてくれたアリス・キニアンが彼の先生となり、読み書きなどを習い始める。そして彼女の推薦で、知的能力を向上させる脳外科手術の被験者に推薦される。
その手術を受けた白ネズミのアルジャーノンは驚くべき知能で、迷路のテストではチャーリィを簡単に負かしてしまう。チャーリィの賢くなりたいという想いは膨らむ。
それは「頭が良くなればみんな僕を好きになってくれるかもしれない」「お父さんお母さんが喜んでくれる」と夢見ていたからだ。
そしてついに手術を受けることに。
しかし、チャーリィを取り巻く教授陣の想いもそれぞれ。
手術には副作用の可能性が秘められていたからだ。
術後、チャーリィの知的水準は日増しに上がっていく。
外国語も堪能になり、その知能はアリスや手術を担当した教授達を貼るかにしのぐ。
その一方で、これまでの仲間達の対応は、自分をバカにしていたのだと知るチャーリィ。そして仲間達も変化していく彼を遠ざける。
さらにチャーリィは、アリスに対して、これまでにない感情を抱くようになった自分に気付く・・・。
(パンフレットより)


東京と大阪公演を観てきました。
以下、いつも通りの感想文、までいかない私的一人言です。


八年前。まだ森新吾さんもDIAMOND☆DOGSの存在も知らなくて、巡り会った後、ずっとずっと再演を希望していたアルジャーノン。
再演の報せ(予報?)に飛び上がって叫んだのは大雪の日でした。
もう、ずっとずっと新吾さんの白ねずみを観たくて、ネットに落ちてる観劇レポや劇評サイトの写真を見ては溜息ついてましたから。
DVDもなく、過去には遡れないのが舞台ファンの苦しみで悩みですよね。でもだからこそ劇場に通うし、夢中になれるんだけど。
原作である「アルジャーノンに花束を」は高校生の時に読んで、この本の事を思い出すと高校の教室と数学の授業が蘇ります。(授業中机の下で本を読んでた)

今回舞台を観て、あの頃と変わらない感想を持った自分はぶれてないのかそれとも成長していないのか。
どちらともわかりませんが、観劇中は責められているような気持ちになる事もしばしば。
原作を読んだ当時に感じた事。
それは、私はアリスでもチャーリィでもなくパン屋の仲間達側の人間であると言うこと。
アリス・キニアンは私から尤も遠く、対極にある存在で、憧れはするけれどそこに立つ勇気は到底もてません。
私の目は他者をどんな色で見てるんだろう?
私の目をみて、他者は何を感じ取るんだろう?
そんな事を考えると、誰かと目をあわせるのが怖くて、自分がこわくて仕方なくなります。
こうしたことを書いている事すら、自分をよく見せようという算段があるに違いないと自分を疑うくらい、私は身勝手で傲慢な人間だから、アルジャーノンの物語はとても身につまされ、人としてのあり方を問われている気持ちになってしまうんです。
大千秋楽の挨拶で浦井さんが「ダニエル・キイスさんは人は一人では生きていけない、誰かと繋がっていなければいけない。そんなメッセージがこめられていると思います」とおっしゃっていたんですが、私はこの物語からそのメッセージすら受け取れなかったのです。
チャーリィを演じ、舞台に立つにあたって物語やチャーリィ・ゴードンという青年を深く探ったからこその言葉だと思います。
他のキャストの方にしても、この舞台に愛情を注いで創られたのが伝わってきましたもの。
ただ、その優しさ、愛情が、私には悪魔にふりかけられる聖水のような効果があっただけの話・・・
ああ、でもパン屋の人達が知能が退行したチャーリィが戻って来たとき「俺たちの知ってるチャーリィが戻って来た」と言ったのには「何故」と驚いてしまいました。
小説、こんなシーンあったかしら。舞台見る前にもう一度読み返しておけば良かった。
自分達が追い出しておいて、バカになって帰ってきたチャーリィに安堵し、受け入れる。そんな図太さはさすがに私にはない。
でも、物語の中ではチャーリィが戻る場所はドナーズ・ベーカリーしかなかったわけで。
そこで彼らが「彼らが知っている」チャーリィを喜び受け入れるのは、チャーリィにとっても彼らにとっても良いことだったのでしょう。か?

さて。自意識修復はこれくらいにして舞台の事ですよ、と。
やりきれなさを感じる物語ですが、荻田先生の紡ぐアルジャーノンはとても詩的で、そこから哀切と優しさが溢れていました。
照明も音楽もとても美しく、派手なきらびやかさこそないけれど、そぼ降る雨のように気がついたら心の奥深くに染みいっている。そんな舞台だった。
原作との違いはやっぱりアルジャーノンの存在で。私は彼を観に行ったわけですが、いや、驚いた。驚くというか感嘆。感動。
ただただ、そのきめ細やかな演技に見入ってしまいました。
文中ではアルジャーノンはもちろん喋りません。むしろ、経過観察を記されるだけの被検体です。(チャーリィとのシンクロぽい表現はあったかな。すみません、ウロです)
舞台でもアルジャーノンは喋りません。
ですが、森さんがアルジャーノンを演じることで、物言わぬ彼の感情が具現化されるのです。
私は本を読んでいたとき、アルジャーノンの感情など考えもしていませんでした。
道徳的な所で被検体にされる動物の生命云々については考えましたし、アルジャーノンが何を考え、思っていたのかなんてちらりとも浮かばなかったのです。
セリフもなくただ人々の間を踊り、すり抜けていくアルジャーノンは概ねすっと冷めた表情で感情らしきものは浮かべませんが、時々チャーリィや周りの人に感化されたように表情を咲かせます。
悲しみだったり嫌悪だったり驚きだったり。
今までセリフ芝居を観てもピンとこなかったけど、身体表現に限られているからこそ濃やかで雄弁なアルジャーノンは森さんの魅力や技能が最大限に発揮されていて、とても素晴らしかった。
ごくたまにうっとりと微笑むような表情をされて。そのとろりとした眸に心が騒いで、物語の世界から弾き出されることもしばしば。
一皮剥けば32才の(またいで33才の)割と強面のお兄ちゃんです。分かってます。
でも、そのピュアピュアな表情に魅了されて森新吾さんを見始めて、ここ最近お目にかかってないんだよな〜なんて腐ってた所でのあの表情は強烈でした。(最近キリッと厳しめの表情ばかり観てたので柔らかな表現が恋しかったのです)
実際、八年前のかわいらしさは期待せずにいこう。と、予防線をはっていただけに、残っている八年前の画像より純粋なものを見せられて舌を巻きました。
八年があって、その間に表現者として熟練され、深みを増したからこそなのかと思うと、やっぱり初演を観たかったと嘆かずにはいられない。
余談で、東京で観たときは、アルジャーノンが死んだ後、チャーリィの影として纏わり付いていると思っていたのだけど、大阪で再度観ると、その前から、一幕の時からチャーリィらしき表情や動きをすることもあれば、周囲の人の感情に反応することもあるのだと気づき、回数重ねるって大事だなとも思った次第です。
あとこれははっきりしないのだけど、少しずつ演出や表現が変わっていたように思います。
東京は幕が開いてすぐ観に行って、ほぼ一ヶ月ぶりなんですが、所々「あれ?前もこうだったっけ?」と言うところがあり、もしかしたら回数重ねて気付いたと感じたところも、演じるうちに変わっていたところなのかも知れない。

森さんが出ている間はついつい目で追ってしまうんだけど(セリフや場の空気に反応するのを見逃したくなかった・・・)、ちゃんと他の方の演技も観ていました。
やっぱり好きだな〜と感じたのが宮川浩さん。
私、こういう発声をされる方に惹かれるんだなと何度目かの実感。
ハリがあり、力強いお声にうっとりです。
特にチャーリィの知能が退行していく中、歌われた歌(見えるのは、世界。でいいのかな?)。
星は消えた。灯台の灯りも・・・(ウロ覚えです)という歌詞でスパーンと始まるこの歌が最初何を示しているのか分からず、二回目の観劇で徐々に失われていくチャーリィの知能と、不安なんだと気づき、そこからこの歌が大好きになりました。
チャーリィの無念さがひしひしと胸に迫ってきて、ぐっと奥歯を噛みしめて最後の時を刻む二人を見ていました。
あと、音楽詳しくないので的外れな事を言ってそうですが、この歌聞くと何故かナポリカンツォーネを連想してしまいます。

歌と言えばもう一方印象的だったのが桜乃彩音さん。
ピアノのように澄んだ声!
数人でハモっててもよく分かる特徴的な声なんですが、他から浮いてしまうわけでもなくちゃんと調和されていて驚きでした。
涼やかで凛とした佇まいは潔癖感もあって、チャーリィの母親ローズを演じるところでは鬼気迫るものがありました。
ローズは舞台の上で抽出されたところだけをとると母親としてどうなのと思われそうなんだけど、時代背景とか考えると今ほど知的障害に理解があったわけじゃないし、いの一番に責められるのは母親なわけだし、すごい辛かっただろうなと。
劇中でも全てを理解した(つもりの)チャーリィが犯人捜しと称して彼女の心理を曝いていたけど、それだけではなかった筈なんだよね。
それとは対照的に父親マットとの思い出は髪を切ってもらったり、ちょっとしたことで頭を撫でて貰ったりと良い思い出になっていて、でもだからと言ってマットが良い父親だったかというとそうとは思えないから難しいです。

このマットとの邂逅のシーンで、森さんがワンフレーズだけ歌う「おとうさん」にもやられました。
チャーリィがマットの営む理髪店を訪れた時にはアルジャーノンではなく手術を受ける以前のチャーリィとして存在していた森さんですが、チャーリィとマットとの掛け合いの合間に「おとうさん」と子供の声と顔で彼を呼ぶその演技に胸を突かれた。
それこそ全くの子供の顔で、裏も表もなく親を呼ぶ。
アルジャーノンの間はもちろんセリフ無しなんだけど、アーニィというドナーズ・ベーカリーでチャーリィの代わりに働いていた男の子をやっていたときも一言二言のセリフがあって、彼も少し知恵遅れのようだったけど浦井さんのチャーリィとはまた別の演技をしていて、それもすごく良かったのです。
ってこう書くとお前何様だって感じだし、さっきセリフが無いからこそ云々言ってたのを自分でひっくり返しているわけですが。
浦井さん、森さん始め、このカンパニーの方々が障がい者に敬意を払って演じられているのが凄く伝わってきて、+αになってるのかなと思います。(それか今まで私が観てきた舞台の役があってなかったとか?いや、アレはアレで面白かった)
白痴のウェイターを演じていたときもとてもチャーミングで、アルジャーノンとはまた違った愛らしさがありましたし、アルジャーノンの時もずっと指を曲げていて、ネズミの手なのかな?それがぴくっと動いたり、繊細な表現をするのをじっと見ている時もありました。
ああ、結局森さん所に話が戻る・・・(笑)

そう言えば高木くんをこんな舞台で観る日が来るとは・・・と、嬉しい驚きもありました。
桃ちゃんの時は彼が歌い出す度に固唾を呑んで見守っていたのも懐かしく古い話ですね。
時を経て、経験を積んで、彼もまた・・・って頑張れしんぺぇえええってなったのはここだけの話です。
さすがにベテラン陣の中に放り込まれると見劣りしてしまうのは仕方がない。でも安心して、新吾さんもきっかり演じて歌う役だったら同じラインだと思うから←
でもバートっていう、優しい青年の役は高木くんにぴったりだった。
アルジャーノンのことも、チャーリィのことも、損得なしに考えていてくれたよね。
ニーマー教授のやり方に憤ってくれたり、それは若さで、まだ彼が「研究者」になりきれていない甘さだろうけど、そういった所も好ましいよい子だった。
それとは対極の良知真次(笑)
思わず(笑)ってつけてしまうほどいやーな役をしかも二役も!
でも不思議とらっちゃんが演じるやな奴って、下品ないやらしさはないんですよね。
それは良知さんの根っこがしっかりしているからかな。
ニーマー教授もギンピイも、すごく差別的で俗物だったけど、自分の欲求にストレートでヒエラルキーってものにすごく敏感だった。
チャーリィに上下関係を逆転されたときの苛立ち、怒りの表現は私にも理解出来るものだったし、だから私は彼らを嫌いになれないんだ。

あ、今、主演に触れずに随分かたってるなぁと気付きました。
浦井さんは舞台でお見かけする機会も多い俳優さんですが、改めて凄い方だなと印象づけられました。
幕が開いてすぐの「ぼくわかしこくなりたい」から、辿々しかった言葉が少しずつ、発音から、声から変わっていく、その細やかな演技。
すこし雑味が入った高い声と、沸々とした怒り?苛立ち?を含んだ低い声。
その二つの声の間もあって、様々な種類の「声」で演じ歌う凄さ。そうそう出来ることではないと思うのですが、それがあまりにも自然で、チャーリィ・ゴードンそのもので、終わってからその凄さがじわじわきています。
数々の天然の話はあちこちの舞台裏話で聞きますが、大阪楽の挨拶もまさに「らしく」て微笑ましいものでした。
カテコで出てくる森さんにちょっかいかけたり、迷走する浦井さんを共演者さんみんなどうする?て感じで見守る中、一人前向いていつもの笑顔でしらんふりの森さんとか、お二人の間柄が垣間見えてそれも面白かったり。
そんな浦井さんだから出来たチャーリィ・ゴードンで、アルジャーノンに花束をなんだろうな。


実に様々な人が登場して、チャーリィを取り巻いていたのだけど、フタを開けたらたった9人のキャストが演じていたんですよね。
私が再演を熱望している舞台がもう一本、荻田先生のワイルド・ビューティで、こちらは幸い知人にDVDを見せてもらえたのですが同じ感想を抱きました。
そちらも多様な人物が登場するけれど、カテコをみて「えっ?(キャスト)これだけ?」って驚いたものです。
2008年上演なのでアルジャーノンの二年後ですが、雰囲気が似てるのもあって、荻田先生の試行が垣間見たような気がして楽しい。
宮川さん演じるのは穏和なストラウス博士、ドナーさん、マット
良知さん演じるのはこの物語のヴィラン、ニーマー教授とギンピイ
性質が似たような所なので演技するにあたっての心理的な振り幅はあんまりないかなと思いきや、それぞれにちゃんと違う人物になっていて、だから最後に「あれ?これだけのキャストでやってたの?」ってなるんですよね。
森さんもアルジャーノンに徹しながら所々で違うキャラクターを演じていたりするし、女優陣に至ってはもうしっちゃかめっちゃかで大変です。
アリスが唯一シングルだったけど、チャーリィの幻想の中でローズの一人になっていたりするから完全シングルでもない?
アンサンブルが取り巻いてという方法も面白いけど、一人の人間が右から左に向きを変えただけで違う人になるというのも舞台ならではの表現方法で観甲斐があるというか、とても面白くて楽しいです。
何がどうなってるのか見逃したくないから集中力もたかまるしね。


さて。長々書いた!
とても素敵で色々考えさせられる舞台でした。
また再演あるといいなと思うけど、その前になんとかワイルド・ビューティを・・・とどこ向けにか分からないけど伏してお願い申し上げます。
舞台も人も巡りあわせだなと熟々感じる今日この頃。
せめて「今」やってる舞台は見逃さないようアンテナ張ってどんどん貪欲で参ろうぞ〜
長々と読んで下さって有り難うございました。